編集部ブログ

森上逍遥著作

2020.06.23

梅雨の空

 既に梅雨の明けた沖縄以外は、全国的に梅雨の空模様です。梅雨のしっとりした肌寒い日々は、意外に落ち着き、暑い夏が来る前の清涼剤のような気がします。

 梅雨というと、関東で育った編集者にとっては、どんより曇った空と、しとしと降る長雨というイメージがありますが、九州では全然違うということを、『侘び然び幽玄のこころ―西洋哲学を超える上位意識―』を読んで初めて知りました。この書には、梅雨という季節が日本人の精神性に及ぼした影響についても書かれています。日本人論としても大変面白い本ですので、是非ご一読ください! 

 著者ブログでも、この梅雨の話を読むことができます。

 森林や田畑を潤し、人びとの生活用水を確保してくれる梅雨ですが、最近は豪雨の被害も増えているように思います。何十年か後には、梅雨という言葉の持つ印象も、変わってしまうのかと思うと、一抹の寂しさを覚えます。

2020.06.09

自己主張と「侘び(わび)」観

 日本は自己主張が下手だと言われます。自分の主張をガンガンする他国の人々に比べて、おしなべて日本人は控えめですし、他者に配慮する(気にする)といえます。個人では美徳にもなりえるこの感性は、外交など、国際舞台で他国と伍してやっていくときには、圧倒的に不利に働くことが多いです。

2020.05.26

森上逍遥先生のHPが出来ました

弊社より『侘び然び幽玄のこころー西洋哲学を超える上位意識―』『人生は残酷である―実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬』の2冊の著書がある森上逍遥先生。新しくホームページを立ち上げ、ブログで新刊情報などを発信されています。

2020.05.15

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』第1章その3

森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』(仮題)より、第一章「意識と科学 量子仮説」の続きをご紹介します。

第一章  意識と科学 量子仮説

神の再構築

◆「信仰」の否定と「分別」という誤り

 この神観が、物理学の発展によりそのリアリティを失い、知的を自認する者たちを中心に自然科学者、生理学者、生物学者たちが〈依存〉として受け止めた神観からの脱出を試み、彼らは神信仰を捨て唯物信仰へと転換したのである。このような物事に執着して判断していく思考を仏教では「分別」と呼んで、煩悩の最たるものと教えている。凡夫の愚行として分類するのであるが、そのようなことを知る由もない知性を標榜する者たちは、新たな唯物信仰へと移り、神への信仰を捨てたのであった。その結果、それまで宗教によって保たれていた道徳や倫理観が崩壊し、権力やカネが優位の社会を形成し始め、敗者は劣者と見られるようになった。その最たる者がヒトラーであり、現在のアメリカ文明であるだろう。次は中国文明がそれに代わるのかも知れない。現在の日本も同類である。

2020.05.12

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』第1章その2

森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』(仮題)より、第一章「意識と科学 量子仮説」の続きをご紹介します。

第一章  意識と科学 量子仮説

神の再構築

◆意識とは何か(続き)

 ギリシャ哲学に代表される西洋哲学においても、哲学のスタートは「神」の理解であった。当時の知的人物らが、庶民が考えつくこともない理屈を考え、神の存在の有無を論じ、より優れた者は自然哲学を学ぶ者となった。ピタゴラスに代表される偉大な哲学者は、現代人の大半が理解できない数学(数式)の道を切り開き、同時に自然と人間の意識とを神の創造物として分析した。西洋知識人の多くがいまだにプラトンをはじめ、この古代の哲学者たちへの敬意を忘れない。この欧米人と同じ感性を日本人の多くが疾に失ってしまっている。

 ユダヤにおいても、5000年も昔からの歴史を重んじ、そこに現れる信仰厚い偉人達に敬意を払っている。偉大な哲学の歴史を持つインドにおいても同様である。中国の聖人たちは、いまも我々の精神の支柱として君臨している。にも拘らず、近年の唯物論者の急増には残念ながら抗しきれない。

2020.05.08

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』第1章

森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』(仮題)より、引き続きご紹介します。今回から、第一章「意識と科学 量子仮説」の一部をご紹介します。意識とは、何でしょうか。私たちは、当たり前のように意識という概念を用いていますが、では、意識とは何なのか、どこに生じるのか、考えてみると、とても曖昧で、言葉に窮してしまいます。科学がまだ解明できていない最大のテーマなのかもしれません。

第一章  意識と科学 量子仮説

神の再構築

◆意識とは何か

 我々の意識とは何だろうか。「我」とは意識そのものだが、その意識がどこから来るのかは未だ誰も知らない。脳生理学者は脳内ネットワークが作り出したものに過ぎないと言うが、果たしてそうだろうか。確かにそれは一面の真実ではあるが、その主観性が客観として存在しうるだけの説得力をもって脳に依存するという答えの不確かさに誰しもが疑問を持っているものだ。全ての存在は還元すれば原子に辿り着く。さらに、原子を構成する陽子や電子、更には陽子を構成するクォークなどの素粒子の原理は量子論として理解され、存在の否定の解を導いている。極論すれば、生滅を繰り返す(つまりは固定的存在性が否定される)量子が「私」を形成している以上その「私」も固定的存在性が否定されるということになる。更には、「私」の意識の有意性について改めて議論の余地を残ことになる。すなわち、この意識を存在せずとして否定するのか、あるいは独自存在として肯定するのかという問題が発生する。

2020.05.06

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』序章その4

 量子論の旗手であるシュレディンガーは、インドの『ヴェーダーンタ哲学』を学んでいたと言われます。量子論の基礎を築いた二―ルス・ボーアは、後半生を『易経』の研究に捧げたといい、不確定性理論のハイゼンベルクは、インドの詩人タゴールから、インド哲学を学んだそうです。東洋と西洋の知の出逢いが、物理学を新たな次元へと推し進めたといえるかもしれません。

森上逍遥先生最新作『タオと宇宙原理』(仮題)序章より引き続きご紹介します。

◆量子力学は仏教哲理「非存在」を学んでいた!(続き)

 理論物理学者でノーベル賞受賞者のエルヴィン・シュレディンガーのことばである―

 「私たちはいったい何者であるのか。私はどこから来て、どこに行こうとしているのか」というような当惑させられる疑問を乗り越えるために、科学が果たした最も重要な寄与―そして、少なくとも私たちの心を休めるために―このような疑問に関して科学が提供してくれた最も評価し得る助けは、私の見るところ、時間というものの概念化にほかならない。これを考える時、ヒッポの聖アウグスティヌスやプラトンのように、科学者ではないが、同一線上にある多くの人々を思い出すのだが、特に三人の名前がありありと浮かんでくる。

 その三名は、プラトン、カント、アインシュタインである。
(略)プラトンの一生の仕事に見られる二千年を越えて今なお光彩を放っているそのまことに優れた卓越性は、いったい何から来ているのだろうか。(略)

 それは、彼が時間を超越した存在という考えを直視し―理性に抗して―現実の経験よりもこの存在はより現実的だということを強調した最初の人だった、ということなのである。

2020.05.06

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』序章その3

森上逍遥先生最新作『タオと宇宙原理』(仮題)序章より、引き続きご紹介します。

◆量子力学は仏教哲理「非存在」を学んでいた!

 いま物理の世界では、存在について無だと言い始めた。時空間は存在しないという思いもしない説が語られるようになった。それらの説はいまや定説となりつつある。しかし、時間軸の中でしか自己認識できないと信じている人たちにはそれは理解しがたい学説であろう。科学者のたわごとと感じるだろう。当然のことながら科学者の間でもそれが理解できない人は多い。

 実は、仏教はその科学的真理についてすでに2500年前に、禅定という特殊な精神状態の中でその答えを導き出していた、と言ったらあなたは驚くだろうか。それは後に解説する刹那滅という定理をもって仏教哲学の基礎を成していたのである。極めて厳しい論理展開の末にこの帰結に辿り着き、仏教教義の根幹を成すに到っている。そこには、この世もこの「私」も一切が存在しない無自性(絶対性の否定)の原理によって成立していることが導かれているのだ。後に説明する如く、この仏教の哲理を学んだアインシュタインら物理学者は、仏教のこの公理をヒントにこの物理世界を分析し、遂に量子の原理について解き明かすに到ったのである。この仏教哲理に影響を受けたという厳然たる歴史的経過を改めて我々は再評価しなければならないのである。老子のタオも事物を超越し、時空をも超越して、ある種のリアリティとして存在する。それは偉大な自然科学者たちの物理法則の発見と同等に、いやそれ以上に驚嘆に値するものであった。

 2500年の歳月をかけ数え切れない自然科学者たちの知恵の集積としての数式を用いた理論によって導かれたのではなく、仏陀というたった一人の直観としての深い洞察として、さらにその奥の深い体験として、それらが精神上に導き出されたという事実に敬意を払わないわけにはいかない。斯書ではそれらの事実を紐解き、人の魂が自然を前にして感受する日常言語を超越した「魂のことば」(筆者はそれを〈自然言語〉と呼ぶ。詳細は二章)に生きる人たちのために解説を加えていくものである。

2020.05.04

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』序章その2

 あなたは、夢を覚えている方ですか。ファンタジー、スペクタクル、アドベンチャーの要素がつまった夢や、日常の延長の夢、何かから必死に逃げている夢、あてどもなく移動している夢、目覚めて考えると矛盾だらけなのに、夢の中では当たり前に受け入れている…夢とは、とても不思議なものです。

 そもそも、現実と夢との違いな何なのでしょうか…。

 森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』(仮題)「序章」の続きをご紹介します。(お名前の表記が変わりました。)

◆夢は現実か現実は夢か

 2019年の春4月、思いもよらない不可思議な体験をさせられることになった。筆者は毎朝、夢日誌を付けているのだが、この日だけは特別だった。いつものことながら夢の中では客体としての自己を見続ける習慣がありいつも通りに展開していたのだが、途中で、いつもなら夢と認識しているはずの夢の中が、夢ではないことに気付いたのである。夢には奇想天外といったいくつかの特徴がある。大きく言えば現実との違和感がある。だからいつもはそれが夢であることを認識しながら夢を見続け、嫌な展開になるとそこから抜け出すことにしているのである。要するに目覚めることが大半だが、場合によっては違うイメージへとワープしてしまう事もある。そういう意味において著者はかなり夢をコントロールできるという事になる。だからと言って見たい夢を観ようとは思わない。自身の深層意識を分析する目的が大きいことと、深層意識による何らかの示唆を尊重しているからである。

 どう見ても、微塵の疑いもなく現実の今に私は存在していることを確認した。今のこの瞬間と全く同じ世界であった。いつもの日常のありのままの自分、何らの違和感のない視覚世界、微塵の狂いもない現実がそこには存在していた。何一つ非現実の事象は見当たらなかった。いつもならすぐに気づくはずの夢独特の違和感は一切存在しなかった。私は、それが夢でないことを確信し日常に戻ったのである。それは、今この瞬間の現実と全く同じ状態にあった。あなたがこの本を読んでくださっている今そのものであったのである。そうやって、幾度もの確認をしたのち現実をまざまざと実感している最中、私は目の前の時空にガラスが割れるようにひびが入り、またページがめくられるように時空が剥ぎ取られていくのを目の当たりにすることになったのである。

2020.05.02

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』(仮題)公開します!

森上逍遥先生御執筆中の最新刊は『タオと宇宙原理』(仮題)。

道(タオ)は、無形にして天地を育成し、無情にして日月を運行し、無名にして万物を長養する、と老子は説かれています。森神逍遥先生は、本書の中でタオを「大自然の慈愛」とも書かれています。仏教をはじめとする東洋哲学に精通する著者が、その智慧を以て、最新の宇宙物理学を読み解きます。

近日刊行予定の本書の「序章」の一部を、特別に限定公開します!(お名前が、森神から森上に変わりました。)

◆序章 ― この世は存在しない!

 プログラムされた人類

 この世とはどんな世界なのだろうか。目に映った世界がこの世だと、誰しもが信じて疑わない。本当だろうか。若い時には、日常に心が奪われ、日々の出来事に振り回される日々で、この世の存在と自分の存在との関係について考える、などということは、大半の人はすることがない。ところが、誰しも年を取ると、自分の意識と自分の身体とが別物であることを痛感させられるようになる。身体が思うように機能しなくなるからだ。若い読者は、この言葉を決して看過してはいけない。アッという間に「その時」は訪れるからだ。その時に、これから語る多くのことが、あなたを支えることになるだろう。

 あなたは「何故ここに自分が存在しているか」考えたことがあるだろうか。あなたがあなたでしかないことに疑問を持ったことはないだろうか。筆者にとってそれは最大の難問だった。何故、自分は自分なのか。他者ではないのか―。巨大な問だった。あなたもあなたを演じているだけの「あなた」という人生の主役でしかない。あなたにとってはあなたの、筆者にとっては筆者の人生しか我々は生きることが出来ない。そして、その中心は常に「自分」である。

 あなたは、その「自分」について真剣に考えたことがあるだろうか。筆者はこの自他の別に小学四年生の時からずっと悩むようになり、自然の営みを見つめながら人間という存在のあり様を思惟する道を歩むようになった。一人一人の生を観察していると、我々は一種のロボットの様に思えてくる。誰しもに両親がいて、育てられる過程で同様の喜怒哀楽に襲われながら、知恵を付けていく。そして十歳で脳の大半が完成すると、二年後には思春期へと突入する。誰しもが同じパターンである。

2020.04.28

菜種梅雨(なたねづゆ)

ここのところ、お天気が変わりやすいですね。朝晴れていたかと思うと、みるみる曇って雨が降り出す日も。
そういえば、二十四節気ではちょうど「穀雨(こくう)」。百穀を潤し、芽を出させる春の雨の降る頃です。 農耕にかかわる人々にとって恵みの雨。草花も青々と茂ってきました。この時期に長引く雨を菜種梅雨(なたねづゆ)というそうです。

森神逍遥先生の『侘び然び幽玄のこころ―西洋哲学を超える上位意識―』の「第一章 侘び」の中の、菜種梅雨(なたねづゆ)の描写は少年のころの筆者の見た美しい雨の世界です。

■輪廻する四季(続き)

春の菜種梅雨(なたねづゆ)は三月下旬から四月上旬の長雨のことだが、本物の梅雨に比べられる程のものではない。寧ろ催花雨(さいかう)と言って、花々の咲き出すのを促し世を幸せにしてくれる雨である。

2020.04.26

八重桜の季節

ソメイヨシノより濃いピンクで、逞しい印象の八重桜。ここ編集部の近くでも八重桜の花びらが道路に舞い落ちています。

森神逍遥先生の『侘び然び幽玄のこころ―西洋哲学を超える上位意識―』の「第一章 侘び」の中から、引き続きご紹介します。

■輪廻する四季(続き)

然(さ)びたるソメイヨシノが散り侘びて、八重が大味の趣を以て田舎の道を飾るのである。山の中に押し分けて入れば、山桜が葉を落とすことなくその花は柔らかい葉と重なって薄い緑色をして咲いている。当時の筆者は、ソメイヨシノ以上にこの山桜が好きで、一人山の中の道なき藪(やぶ)を進んで見つけ出し、一人悦に浸っていたものだ。

2020.04.25

桜の香り

今年は桜が比較的長く楽しめたのは、暖冬で桜の生育が、枝によって違ったため、開花時期もずれたからだそうです。いまは、ソメイヨシノに代わって、八重桜が目を楽しませてくれます。

森神逍遥先生の『侘び然び幽玄のこころ―西洋哲学を超える上位意識―』には、四季の自然の美しい描写があります。

第一章 侘び」の中から、「輪廻する四季」の中からご紹介します。少し季節が戻りますが、春のそよ風を感じて頂けたらと思います。

■輪廻する四季

春のそよ風のなんと心地よいことか。満面の笑みを見せつけられる様な山々の色づきに、冬の過ぎ去りしを覚え、一段と増した日の光に心はウキウキしてくるのである。そして花は咲き乱れる。この情景に心踊らない者に「侘び」も「然(さ)び」も「幽玄」も理解は出来ない。
桜の花は特に筆者の心をとらえて離さないものの一つだった。家族とだけでなく、小学生になると一人で誰もいない所にまで見に行ったものだ。そして桜の下で、その心地よい風に当たっていたものだ。

2020.04.24

森上逍遥先生の新刊5冊が近日刊行予定です

日本に伝統的に伝わる哲学思想であり人生哲学を解き明かした『侘び然び幽玄のこころ』、サルトルの実存主義に影響されたエリート層に支配される現代日本に警鐘を鳴らした『人生は残酷である―実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬』につづく、
森上逍遥先生待望の新刊が近日刊行されます。(お名前の表記が変わりました。)

現在、5冊同時にご執筆中で、近日、順次刊行予定です。

内容は、

    宇宙原理と仏教哲学及び東洋思想のタオについて解き明かす『タオと宇宙原理』(仮題)
    『ギリシャ哲学入門』(仮題)
    『インド哲学入門』(仮題)
    『ノーベル賞学者の神観』(仮題)
    『タオに癒されて』(仮題)

深淵な世界を、分かりやすく解説されています。
進捗を、ブログなどでご紹介していきますので、どうぞお楽しみに!