編集部ブログ

2020.05.08

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』第1章

森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』より、引き続きご紹介します。今回から、第一章「意識と科学 量子仮説」の一部をご紹介します。意識とは、何でしょうか。私たちは、当たり前のように意識という概念を用いていますが、では、意識とは何なのか、どこに生じるのか、考えてみると、とても曖昧で、言葉に窮してしまいます。科学がまだ解明できていない最大のテーマなのかもしれません。

第一章  意識と科学 量子仮説

神の再構築

◆意識とは何か

 我々の意識とは何だろうか。「我」とは意識そのものだが、その意識がどこから来るのかは未だ誰も知らない。脳生理学者は脳内ネットワークが作り出したものに過ぎないと言うが、果たしてそうだろうか。確かにそれは一面の真実ではあるが、その主観性が客観として存在しうるだけの説得力をもって脳に依存するという答えの不確かさに誰しもが疑問を持っているものだ。全ての存在は還元すれば原子に辿り着く。さらに、原子を構成する陽子や電子、更には陽子を構成するクォークなどの素粒子の原理は量子論として理解され、存在の否定の解を導いている。極論すれば、生滅を繰り返す(つまりは固定的存在性が否定される)量子が「私」を形成している以上その「私」も固定的存在性が否定されるということになる。更には、「私」の意識の有意性について改めて議論の余地を残ことになる。すなわち、この意識を存在せずとして否定するのか、あるいは独自存在として肯定するのかという問題が発生する。

 果たして意識とは普遍存在であるのか考えなくてはならない。ガチガチの融通の利かない合理的還元主義では一切はビッグバンと共に単に偶然に発生しただけのものに過ぎず、そこに何の意味も有しない、となる。果たして本当だろうか。この宇宙もこの地球も大自然も我々の社会も我々も、知性も芸術も叡智も愛や悲しみも歴史もそれら一切が、何の価値もない単なる偶発的存在でビッグバンの気まぐれの産物でしかないのか―。

 筆者は幼少の頃よりずっと自分について考えてきた。存在の不可解に悩まされてきたものだ。しかし、一部の物理学者たちが言うように、「あなた」や「私」という存在は無意味なのだろうか。内から発生してくるこの〈意識〉、〈思い〉はただの錯覚なのだろうか。では、その錯覚の正体は何であるのか。多くの学者は何も説明することなく、単にその存在を発生論的に無意味(単なる偶然)と結論付けるのである。

 哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは、意識について物理学で基本構成単位として用いる空間や時間や質量などと同様の自然を構成する基本要素のひとつと仮定している。この考えは、古代ギリシャの時代からあるもので、むしろそれが当たり前だったのだが、哲学者にして数学者だったデカルトの物心二元論が登場して以降、科学が発達するに伴い、いつの間にか唯物主義に席捲された学者の一部は意識も単なる原子の寄せ集めと考えるようになり、意識の深淵について一切触れようとしなくなった。哲学を差し措いて意識を単なる偶然の産物以上のものではないとしてしまったのだ。その結果、それまで人類が築いてきた一切の価値を否定し、ニヒリズムへと陥ってしまったのである。