台北へ

母と再会した後、私はすぐ台北の西松組へ向かいました。台北も終戦の年の五月に空襲を受けていましたが、日本人街が集中的に攻撃されただけで、嘉義ほどの被害はないように見えました。

最初に中国兵を見たのは、その頃です。台北駅に降て、三々五々と隊を組んで、肩に棒を担ぎ、その棒から、傘、布団、鍋、コップなどをぶら下げらていました。草鞋を履いてだらだらと歩いている者もいれば、裸足の者も沢山いました。こんなのは敗残兵だと思いました。まるで支那事変の時の敗残兵の絵にそっくりでした。

これが中国の軍隊かと思って、反吐をはくような気持ちでね、本当にもうがっかりしましたよ。歓迎式典に駆り出された人々も、あまりのひどさに家へ帰ってしまったというぐらいです。私達は、失望しましたし、同時にこれからどうなるのだろうという不安が大きくのしかかってきました。

後になって、それは十月十七日、米軍艦船三十隻に分乗して基隆港に上陸し、汽車で台北に進駐してきた部隊だと知りました。やってきたのは国民党軍二万二千人と官吏二百人でした。

国民党政権は大東亜戦争では戦勝国でしたが、米軍の助けがあってのことです。国民党軍のだらしなさや、知性の低さ、汚い身なりを見た私達は、日本軍とのあまりの違いに驚きました。

その後、十月二十四日に陳儀(行政長官兼警備総司令官)が台湾に到着しました。その時、私はちょうど飛行場の近くで大八車を引いて引っ越しをやっていたので、その様子を見ました。陳儀は、中型ジープに乗って、ちょうど飛行場の方から出てきたところでした。同乗していた四人の警衛が、自動小銃を全部大衆に向けているのです。何だこれは、日本人が怖いんだなと思いましたよ。敵対的な感じでした。まあ、敵の牙城だった所に乗り込むのですから、無理もない心理かもしれませんけれど。

その翌日の十月二十五日、日本政府代表の安藤利吉・台湾総督と、台湾省長官公署の陳儀・初代長官との間で降伏文書署名が交わされました。これによって、日本軍と警察権力が武装解除、解体され、台湾は正式に中華民国となりました。

それから、蒋介石グループによる外来政権の統治が始まりました。それが、あれほど冷酷非情で、出鱈目な統治になろうとは、この時、まだ誰も想像していなかったに違いありません。まだ、中国や中国人がどういうものかを理解していなかったのです。


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