出征軍人と南京陥落

戦争の影を身近に感じ始めたのは、開戦の四年前、昭和十二(一九三七)年に勃発した支那事変(日中戦争)の頃でした。私が工業学校に入学する前年のことです。戦火が支那大陸に広がり戦いが烈しくなると、身近な人が次々と出征兵士として支那大陸に送られていきました。

公学校の先生方も兵隊に取られ、出征の日に、台南駅へ見送りに行ったこともあります。出征軍人を送る歌といって、軍歌を歌って見送ったものです。「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは~」と、声を張り上げて、一生懸命歌いました。皆、泣き別れでした。無事で帰って来て下さいとは言えない状況ですから、言葉がありませんでした。泣くに泣けませんから、涙を堪えて。残された家族は気の毒でした。

それでも、昭和十三年、十四年は、そうやって大々的に出征の時に見送ることが出来ましたが、その後はもう、皆が秘密裏に、目立たないように出ていきました。防諜上、動員しているのが分かったらまずいから、さっと行かざるを得なかったからです。見送ってあげることさえ出来なかった悲しい時代でした。

工業学校一年生の夏休みには、生徒達が帰郷したあとの寮が、南京に爆撃に行く兵士のための宿舎になったこともありました。その南京が陥落した日の夜、嘉義でも提灯行列がありました。やった!と、町中が沸いていました。南京を攻略して、入城式の時に一緒にやったと記憶しています。父や母、弟や妹、近所の人も皆で行列したのを覚えています。

戦争が次第に迫りつつあるのは、肌身で感じていました。だんだん切羽詰まったような感じで、時代が変わっていると感じさせられました。物資もだんだん少なくなり、世の中が慌しくなってきました。とはいっても日常はまだまだ大らかで、物に困窮することはありませんでした。台湾は、だいたい何でもありましたから、内地の方が大変でしたよ。

内地や南方では食糧や物資が不足していましたから、皆で慰問袋を送ったことがあります。同窓生の林又一郎という人が、三年生の時から航空兵に志願して、ラバウルに転属していたので、自発的にラバウルに慰問袋を送ってあげようということになりました。石鹸とか食糧とか、いろいろ詰めて送りました。その後、彼の消息は知りません。激戦地でしたから、恐らく戦死してしまったのでしょう。

学校でも次第に軍事色が濃くなっていきました。工業学校では、軍事教練の授業が週一、二時間あり、匍匐前進、傘型散開など、実戦を意識した様々な訓練をさせられました。

三年の時は村田銃、四年五年は三八歩兵銃で、実弾を撃ち、狭窄射撃などの訓練をしました。兵隊と一緒に陸軍演習をしたこともあります。

軍事教練は、配属将校の人が教えてくれました。学校に四人ぐらいいたでしょうか。この人達は、人間的には尊敬に値しない人達だったと言う学友も多かったですね。軍人だから、銃剣を着けていて、訓練も厳しかったですよ。軍人勅諭は一応読まされましたが、覚えていません。

後に兵隊として海軍に入り、訓練を受けた時には、既に学校でやったことばかりで、なんだこんなものか、と思ったぐらいでした。

また、大正奉戴日や興亜奉公日などには、特別の行事がありました。明治節にはちゃんと兵隊の服装をして、学生も銃剣を持って台北神社へお参りに行き、捧げ筒をしたりしたものです。


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