南部の都市・嘉義

嘉義は、台湾南部の平原の中心地帯にあります。日本統治時代に新高山と呼ばれた台湾の最高峰・玉山(三九五二メーター)のふもと、阿里山への登山口としても世界的に有名なところです。日本時代になり、産業都市として、また交通の要衝としても大きく発展しました。私が子供の頃は、阿里山の桧の伐採と製糖会社の景気で、さらに発展しようとしているところでした。

阿里山から切り出した木材を運搬する森林鉄道は、日本が敷設したものです。明治四十四(一九一一)年の開通で、今も台湾の観光のメインとして活躍しています。嘉義はまた、山海の産物や、砂糖の集散地でもあり、製糖鉄道の起点でもありました。「七分車」とか「五分車」といって、本線より小さな軌道の鉄道やトロッコが周辺を縦横に走っていたものです。

清の時代、基隆から新竹まで中国が鉄道を建設しましたが、とても使えたものではありませんでした。ですから、日本が占領した後に膨大な労力をかけて全部作り直したのです。中国では、鉄道敷設などの近代化は、劉明伝(清朝末期の民政長官)の功績だなんて言っていますが、全く出鱈目ですよ。日本はインフラをよく作りました。様々な風土病と闘いながら、こつこつとよく作ったものです。

私が生まれた大正十四(一九二五)年頃、嘉義の人口は五万人くらいでした。その後、町がどんどん発展し、鉄道の嘉義駅が木造から鉄筋コンクリートの駅舎になったのは昭和七年、私が八つの年で、人口は七万人に増えていました。

私が小学校の頃には、陸軍の大きい飛行場も出来ました。明治製糖だとか大日本製糖だとかいった大きな製糖会社も嘉義にあり、商売人も多く集まっていましたから、外国人のための貸し座敷や遊郭もありました。デパートなども出来て、街はますます賑わっていきました。

また、嘉義は鳶職の街でもありました。中林鉄工所というのがあって、昭和七年頃から、日本から船で運ばれてきた鉄骨を、リベット(鋲)で繋ぎ合わせて組み立てることをやっていました。日本から来た鳶職人が多く働いていましたが、皆、威勢のいい小柄な人で、身のこなしがすばしっこかったですね。その人達に仕事を習った台湾人も多いです。戦後、廃船の取り壊しに活躍した鳶達は、皆その人達の弟子でした。

そういう職人の仕事は言葉で教わるものではなく、身をもって習うものです。建築大工なら建築大工に弟子入りして、鉋一つ持つのに何年も修業しなくてはなりません。今時の人は、とてもついていけないでしょうね。根気がないし、ちょっと教えてもらったら、すぐ独立したがる。日本も台湾もそんな事情は同じですね。

ちなみに嘉義駅が鉄筋コンクリートの駅舎第一号、第二号が台南駅、そして、台北駅、高雄駅が完成したところで、大東亜戦争が終戦になりました。

駅が近代的な建物になっていったように、日本時代になって、台湾は急速に発展しました。私は、その昇り龍の勢いを目の当たりにしながら育ったのです。


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